VOL.2 リンダ リンダ リンダ

リンダ リンダ リンダ

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この映画に言えること、それはただ一つ。

俺はこの映画が好きなんだ!

誰がどう言おうとこれは日本映画史に残る最高傑作だろ!と言いたい。

僕ははっきり言って青春映画はあまり好きではありません。ましてや高校が舞台で男と女がちちくりあっているような映画は、スプラッター映画よりも恐ろしくかつおぞましいです。更に追い討ちをかけるが如く、最後に無理やり感動を誘ってくるようなものであれば僕は生き絶えます。

しかしこの映画は違うのです。これは完全なる私の異常な愛情です。ではまたは私は如何にして心配をするのを止めてこの映画を愛するようになったか、説明していきます。

 

まず映画のあらすじを簡単に。

とある地方都市の女子高校生たちの高校生活最後の夏を描く青春群像劇。バンドからギタリストが脱け、3日後に迫る文化祭で何を演奏するか困った響子、恵、望の3人は、オリジナル曲を断念。ブルーハーツのコピーをすることに決めて、韓国人留学生ソンをバンドに引き入れて練習を開始するが……。

出典:映画.com

 

この映画は青春というものをイタいものに見せるように撮られていると思います。青春をちょっと上の方から俯瞰してみるような感じです。だからこの映画に出てくるシーンは意外にもキラキラしている部分は少なく、ドロドロしていたり、圧迫感を感じるシーンが多々あります。それは最初のシーンから始まっています。映画の一番頭は、女の子がカメラに向かってセリフを言うところから始まります。しかも棒読みで。このシーンから始まることによって青春というものを陳腐なものであると観客に伝えています。そしてバンドの結成の仕方もなかなかに嫌なもので、もともとバンドを組んでいた香椎由宇演じるケイと三村恭代演じる凛子の不和とギターリストの骨折によって5人組バンドが急に3人になり、急遽ペドゥナ演じるソンちゃんをバンドに加入させるという、まぁ色々なものが絡みに絡みまくった嫌なムードが全体に漂っています。

 

とまあこんな感じでキラキラした青春というものはあまり見せていないような印象を受けました。そして主人公であるソンちゃんの描き方がこの映画を表していて、このソンちゃんの心情があまり伝わってこないような描き方をしています。常に無表情、韓国人なので日本語の会話もうまくない。このソンちゃんに感情移入できないのもこの映画の特徴の一つだと思います。

 

そんな中でもちゃんとした青春はあります。例えば真夜中の学校に忍び込んで夜通しバンド練習しているシーンとかは、かなり青春感があってすごく良かったです!(僕は男と女の青春ものは嫌いですが、男と男または女と女の青春描写は大好物なのです!)

あとは若かりし松ケンがソンちゃんに告白するシーンだったり、前田亜季演じる山田が好意を寄せてる男の子に告白しようとする場面だったり、うん青春感ですねー。でもこの二つはどっちもうまくいきません。ここにも監督の青春をキラキラしたものにしない演出がなされています。

 

ここまでこの映画の普通の青春映画とはちょっと違うところを説明しましたが、何故僕はこの映画を愛してやまないのか。ズバリ、

僕はこの映画のラストシーンが好きすぎるから!

これに限ります。

 

物語のラストは文化祭最終日のバンドの演奏会に進んでいきます。彼女達はこのライブの為にわずか3日という短い期間に練習を重ねていました。その疲れがピークに達してしまい、スタジオで最後の練習をしていた4人は思わず居眠りをしてしまいます。起きるともうライブが始まっている時間、外は土砂降り。これだけでキラキラした青春とはかけ離れている状況ですよね。そしてびしょ濡れになりながらも何とか会場に着き、彼女達はザ・ブルーハーツの演奏に青春のすべてを掛けるのです。その演奏というのもめっちゃ上手い!ってわけでもない、冷めた目で見ればイタい演奏。でもその演奏がこの映画を物語っていて、

青春というのは確かにイタいものだし、陳腐なものではある。だけどその演奏しているまさにその瞬間。その瞬間だけは紛うことなき最高の青春の一部になるのだと思います。

映画のラストは「終わらない歌」の演奏と共に、誰もいない廊下や教室、下駄箱、土砂降りのプールやキャンプファイヤーをした後の文化祭の残骸などのカットが次々に映されます。このカットの連続全てに青春の空虚さと陳腐さが漂っており、やはり最後まで青春というものをキラキラしたものとして撮らずにこの映画は終わります。あのラストは青春というものをこの映画最大の俯瞰した視線で描かれています。それによって私たちにノスタルジーに近いような感情を引き出して、イタい青春の最高の瞬間を味わせてくれる。本当に最高の終わり方だと思います。このラストがあるからこそ、僕はこの映画が傑作だと思う理由なのだと思います。

皆さんも是非、みてみてね!!

 

 

リンダ リンダ リンダ

リンダ リンダ リンダ

 

 

 

VOL.1 ぼくを探しに

何事もスタートが肝心ですよね

と、哲学的な文言からスタートしてみました。

スタート、一番最初というのはとても大事ですし、だからこそ迷います。ぼくも最初何について語ろうかなと悩みました。

例えば、名作と呼ばれている作品、「ショーシャンクの空に」とかいいよねぇ

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例えば、今話題の映画、もちろん「アベンジャーズ エンドゲーム」とかもいいねぇ

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ただ一つ思うこと、

コイツら友達めっちゃいるじゃん

みんな好きだもん。今更名作と言われてるものを語ってもつまんないし、今話題のやつ語ってもみんなするし!僕が語る必要なし!

f:id:mr-kinoko:20190429002620j:image(自分に対しての賞賛を込めて)

ってなわけで最初に語る作品は、

 

ぼくを探しに

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あらすじはざっとこんな感じ(モロ引用)

アカデミー長編アニメーション賞を受賞した「ベルヴィル・ランデブー」や、ジャック・タチの遺稿をもとに映画化した「イリュージョニスト」などで知られるフランスのアニメーション作家シルバン・ショメが、初めて手がけた実写長編作。「ベルヴィル・ランデブー」のサントラで使われた楽曲「アッティラ・マルセル」に着想を得て、仏文豪マルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」のエッセンスも織り交ぜながら、孤独な主人公が不思議な女性との出会いから失われた過去の記憶が呼び覚まされ、少しずつ変化していく人生を描いたファンタジックな物語。幼い頃に両親を亡くし、そのショックで言葉を話すことができなくなったポールは、伯母のもとで世界一のピアニストになるよう育てられる。友だちもいない孤独な人生を歩み、大人になったポールは、ある日、同じアパルトマンに住む謎めいた女性マダム・プルーストと出会う。彼女のいれたハーブティーを飲むと、固く閉ざされた心の奥底の記憶が呼び覚まされていき、ポールの人生に変化が訪れる。

出典:映画.com 

 

この映画はフランスの作品で2013年に制作されました。監督はシルヴァン・ショメ。この監督は元々アニメーション作品を作ってる監督で、「ベルヴィル・ランデブー」や「イリュージョニスト」などが有名。で、この「ぼくを探しに」は初実写長編作です。(上の引用と重なって説明してしまっているのは勘弁)

 

まずこの作品に言えること、

難しい!

でも安心してください、デビッドリンチ作品のような難しさではありません。(インランド・エンパイアとかね…)

f:id:mr-kinoko:20190429095849j:image(3時間にも及ぶ不思議体験。あとローラ・ダンが怖い)

 

要は、話の筋は分かるけど所々のカットに解釈がいる、そんな映画です。まぁあまりこの言葉は使いたくないですけど深い映画です。

 

  1. 監督について

この映画は普通に見て楽しめる映画です。笑えますし、ちゃんと泣けますし、本当にいい映画だと思います。ただもう少し掘り下げて観ていくともっと面白いです!これはショメ作品に共通する部分なのかなと思います。

 

一作目の「ベルヴィル・ランデブー」は、マフィアに攫われた孫の救出におばあさんと飼い犬が奔走するという話ですが、掘り下げて観ると孫が参加するツール・ド・フランスや映画内に何度か登場する満員電車などは資本主義社会における競争社会の虚しさを暗に表してる描写に感じることができます。各シーンに皮肉を入れるのもショメ監督ならではだと思います。

f:id:mr-kinoko:20190429010805j:image(この作品といえばふくらはぎ!カエル!)

 

2作目の「イリュージョニスト」は、50年代のスコットランドが舞台で主人公は時代遅れの初老のイリュージョニスト(要は手品師)であるタチシェフ。ヨーロッパ各地を営業で転々としている時に、電気すら通っていない田舎に営業することになる。そこで出会った娘アリスは彼の手品を見て魔法使いだと信じ込み、彼について来てしまった。そして彼とアリスは一緒に暮らし始める…。てな感じのストーリーなのですが、まずこの作品を観て気付くこと。それは、セリフがほとんどない、いやもうない。

うん。なんか昔の映画を観ているような感じに包まれます。ノスタルジーってやつですかね。そして音楽がまたいいのです。脱線しますが、フランス映画って音楽素敵ですよね。「アメリ」とか今でもサントラを聴いてあの世界観を思い出します。

f:id:mr-kinoko:20190429100029j:image(あの日アメリに恋をし、ニノに嫉妬したのは言うまでもない)

 

イリュージョニストの話に戻ると、この映画の各キャラクターが何か背負いながら生きているというのもセリフではなく映像から伝わってきます。

質屋に売られていたあの人形。捨てられたウサギ。恋をして大人になっていくアリス。そんなアリスに魔法使いはいないと置き手紙を残して去るタチシェフ。時代の流れとともに若者は次世代を担い、老いぼれは自ら時代の影へと追いやらなけばいけない。そのすべてが愛おしくもなんとも切ない。。。そんな感情にしてくれる作品です。

f:id:mr-kinoko:20190429101541j:image(みんな幸せに生きてくれ!)

 

 2. この映画について vol.1

さあそしていよいよ3作品目(実はこの間に「パリ・ジュテーム」で短編を取っているがここでは長編3作目ということで)である「ぼくを探しに」です。長かったですかね、前説。すみません。でもショメ作品のテイストを説明したかったんです!すみません。

では語っていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

これからバキバキにネタバレをかますのでご注意を。

 

では参りましょう。まずこの邦題について。この邦題は絵本の「僕を探しに」が元になっています。著者はシェル・シルヴァスタインで、この絵本作家は日本でも90年代あたりに「大人の絵本」として話題になった人です。僕はいま大学生なのですが、うちの母親はこの絵本を持っていました笑

ってくらい有名な人らしいです。

https://youtu.be/6kz_Wb-NISI

 

この動画を見て貰えばストーリーが大体わかります。この物語は自分の欠けているかけらを探して地面を転がり続ける話です。ざっくり言うと。確かにこの話のプロットは、映画の方でも物語の推進力として働いています。映画版では主人公は両親を2歳のときに亡くし、その記憶を取り戻すことで人として成長していくという感じです。まさしく絵本のストーリーと合致しています。

また絵本ではついに自分の欠けていたかけらを見つけて一緒に転がります。しかし途中でその見つけたかけらを取り外し、欠けたまま転がり始めます。確かに欠けてる所がない人ってのはどこにもいないし(まぁたまに完璧と思える人もいますけど…)、どこか欠けているからこそそれを補完しようといろんな人と出会ったり、いろんなことを経験していくのだと思います。それが人生ですね、おそらく。この絵本からはそんなメッセージが伝わってきます。

 

では映画版は記憶を取り戻して、何を失うのか?まずは主人公が記憶を取り戻していく過程を説明します。主人公は両親の記憶をマダム・プルーストハーブティーマーマレード音楽によって取り戻していきます。因みにこの映画は小説「失われた時を求めて」に着想を得てるらしいのですが、この小説でも記憶を取り戻していく話であり、紅茶とマードレーヌを食べることによって過去を思い出していきます。モロ同じですよね。

さて主人公は両親の記憶を取り戻していきます。1回目は両親や伯母さんたちやお父さんの友人(この人はちょくちょく出てきていたホームレス風の男)が歌いかけてくる記憶。2回目はビーチでのあのサンバ風の記憶。これはどちらも主人公にとって楽しい記憶ですよね。

しかしその取り戻す記憶は楽しいものだけではありません。3回目に見た記憶は両親が喧嘩をしてるところから始まり、そして謎のカエルが出てきて、最後は両親がセックスしてるシーンで終わります。これは彼にとって悲しい記憶です。

 

そして4回目に見るのが両親がリングでプロレスをしてる記憶です。これで主人公は決定的にお父さんのことも好きになります。これは彼にとって喜ばしことだったと思います。

 

この後に続くのがピアノのコンクールです。ここでは演奏途中にあの忌まわしきカエルが出てきます。ですが主人公はそのカエルと共に演奏をしてそのコンクールで優勝しました。これは主人公が過去の悲しい記憶を乗り越えて成長したことを表しているシーンだと思います。

 

そして最後に見る記憶で両親が亡くなった理由が明らかになります。それは上の階にあったピアノが床を突き抜け落ちたことによって下敷きになってしまったからです。そしてその原因はあのホームレスみたいな男が両親たちの部屋を広くするために部屋の壁を取っ払ったからと言うものでした。この記憶は主人公にとって怒りに近いとのであったと思います。

 

これらの記憶を取り戻す作業によって同時に主人公は喜怒哀楽の感情も取り戻したように思えました。

 

そして彼は自ら自分の指をピアノの蓋に挟んでピアノが一生弾けなくなります。これが彼が失ったものの一つです。彼は元々両親の記憶を失っていたので(司令塔こと)伯母さんたちにピアノをほぼやらされてる状態でした。そのピアノが弾けなくなるということは、彼のアイデンティティを失うと同時に自由を得たのだと思います。

 

そして彼が失うものはもう一つ。それはマダム・プルーストです。コンクール後、優勝を伝えるために彼女の家に駆けつけますがそこで知らされるのが彼女が癌で亡くなったということです。主人公にとって彼女は自分の心を解放してくれた存在だったので彼が最も大きい失ったものであると言えます。それから彼は彼女の弾いていたウクレレウクレレ教室を始めます。彼女の存在は彼によって伝わっていくのです。そして最後主人公が初めて声を出してこの映画は終わります。

 

はい。これが映画を観てもらえば分かるところです。ですが、

これで終わらないのがショメ作品です。

こっからは僕が掘り下げて観た結果報告します。もしかしたら間違ってるかも。最初に結論から言います。

 

 3.この映画について vol.2

この映画、ものすごい宗教的な部分が隠されています。

 

なぜそう感じたか。それを説明していきます。

まず主人公の名前はポールです。ですが、この映画で一回だけでお父さんがポールのことをパウロと呼びます。これは新約聖書を作った一人であるパウロのことを意味していると考えられます。「宇宙人ポール」でも同じように宇宙人の名前がポールであり、物語も聖書が核となる要素となっています。

f:id:mr-kinoko:20190430111414j:image(スピルバーグ作品に対する愛を感じる作品。死ぬ程笑えて泣ける最高の一本だ!)

 

ここで軽くパウロの説明をします。パウロは初期キリスト教使徒であり、新約聖書の著者の一人。ユダヤ人。最初はイエスの信徒からの迫害を受けていたが、回心してキリスト教徒になる。彼の伝説として有名なのが、彼が天の光とともにイエスの声を聞くと目が見えなくなります。その後アナンアというキリスト教徒がパウロのために祈ると、パウロ目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになります。これが彼の回心です。

 

と、パウロとはこういう人物なのですが、映画内のポールにつながる部分がたくさんあります。まず主人公は両親を失ってから喋ることができません。これはパウロの目が見えなくなっている状態と同じです。またそれが自分の記憶を取り戻すことによって最後のシーンで言葉を発することができます。

因みに最初のシーンと最後のシーンが同じ構造になっているところも上手いですよね。加えて最初はグランドキャニオンのポスターの前にお父さんが止まっていますが、最後のシーンは本当にグランドキャニオンの前にポールがいます。これは自由を求め続けた両親を乗り越えて、ポールも本当の自由を手に入れたことを表しているのだと思います。

またマダム・プルーストが弾いていたウクレレを代わりに弾くポールは、イエス新約聖書をもって語り継いでいくパウロと同じです。

以上の点でポールはパウロなのだと思います。

 

次に両親の存在です。この映画の原題は「ATTILA MARCEL」です。この名前はお父さんの名前になっています。元はショメ監督の一作目「ベルヴィル・ランデブー」の劇中歌の一つの曲名だそうです。またここからは想像の話になりますが、ATTILAというのはキリスト教徒から「神の災い」やら「神の鞭」などと言われていた人物でした。更にMARCELは、恐らく「失われた時を求めて」の原作者のマルセル・プルーストから来ています。ポールにとって最初はATTILAのような存在だったのだと思います。それが記憶を取り戻していくとともに、尊敬するようなMARCELになったのだと思います。かなりのこじつけですが、、、

 

最後にマダム・プルーストについてです。彼女の存在がポールにとって最も重要だったと思います。そしてこの物語にとっての重要なキーを握っています。そして最も理解に時間がかかる謎でした。。。

 

まず彼女の死について触れます。彼女は癌で亡くなるのですが、そのことについて暗喩的に表しているものがありました。それはあのおおきな木です。劇中でマダム・プルーストが自らの額に✖︎を描いて立っているシーンがありましたよね。また同じくおおきな木にも✖︎が描いていました。この意味は「ぼくを探しに」の著書であるシェル・シルヴァスタインのもう一つの作品「大きな木」という話から読み取れます。

 

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「大きな木」の内容は、主人公の男の子が大きなりんごの木とともに成長していき、男の子が大人になり木のことに興味を示さなくなったとしても、木が自らの身を犠牲にして男の子に無償の愛を与え続けるという話です。まさしくマダム・プルーストが行なっていたことは同じなのではないでしょうか。だからマダム・プルーストはあの木を自分に投影していたのです。あの木がもうダメであることと自分が癌でダメであることを。そして最後にマダム・プルーストのお墓の前にはおおきな木に加えて、医者が作ったチワワの剥製やウクレレなども置いてありました。そして雨の粒に弾かれて流れるウクレレの音。あれは彼女が今までいろんな人に、そして世界に対して無償の愛を与え続けてきたことに対する一種の讃美歌のようなものなのかなと思いました。

 

次に彼女は仏教徒です。彼女の発言や行動には仏教的な考えに基づいたものがありました。例えば医者に対して、

「あなたのカルマは剥製だわ」

と言います。カルマとは日本語で業、つまり行為のことです。仏教では生きている間に善い行いを繰り返すことでより善いものへと輪廻転生できると考えられています。彼女の他人に対する行為は仏教的に考えると善行を繰り返して善き輪廻転生を目指しているとも考えられます。

 

この映画が何故難しいのかというと、キリスト教と仏教という2つの宗教が混ざり合っているというのが難しいところなのです。ですがこれは多面的にこの映画を捉えることができるということなのかもしれません。一辺倒にキリスト教の映画だとか仏教の映画だと決めつける必要はなくて、どちらのエッセンスも取り入れているというのがもしかしたら正解なのかもしれません。事実最後ポールはフランスへの移住民である中国人の女の子と結婚して子供を作ります。これも異教徒同士が結びついたということなので宗教の混合が描かれているのかもしれません。

 

 4. まとめ

 

この映画は背中を前に押し出してくれる映画でもあり、実は宗教が強く反映されている映画でもあってとってもいい映画でした。日本は無宗教な国であるので僕自身宗教なんて考えたこともなかったので勉強になりました笑

あとこの映画について最後少しだけ補足?で、この映画を見ていてすごく「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」に似ているなぁと思いました。こちらも是非観てみて下さい!

f:id:mr-kinoko:20190514233717j:image(僕のベスト映画のひとつ!)

 

そして映画はただ見るだけでも面白いですし、なによりも調べてもう一回観るのも面白いです!と、啓発活動をしたところでおわり!

 

 

ぼくを探しに(字幕版)

ぼくを探しに(字幕版)

 

 

 

 

 

 

 

事故ショータイムな自己紹介

 

はじめまして。ブログを始めまして書いてる所存でございます。

 

さて僕は文化系の道を邁進し始めている素晴らしき大学生なわけなのですが、特に最近(高校2年辺りから)どっぷり浸っているのは映画でございます。

 

映画は面白い!だけど共有できる友達がいない!(この経緯はぼっt…、否、インドア系最強の男を目指して積極的な自己閉塞を展開してるだけです)

ここで思い付いたのが、

そうだ、ブログ書こう…

ですので、主に映画について綴っていけたらなと思います。あとは僕の好きなことについても書けたらなと思っています。何卒よろしくお願い致します!